20170312-00010003-bfj-000-2-view


「人生の分岐点の日」という2011年3月11日。小学6年生だった岩田は宮城県仙台市内のマンションで被災した。

父親の自動車で一夜を過ごし、その後は家族とともに避難所や親類宅に身を寄せた。
震災から3週間後にAKBの研究生オーディションがあった。

こんな状況で受けるべきか迷ったが、母からの「AKBになって故郷に戻れば力になるのでは」との言葉に後押しされ、東京に向かった。結果は合格だった。

慌ただしい中での上京。震災で延期された小学校の卒業式に出ることはなく、友人たちに、さようならも言えなかった。

ふるさとへの思いから進んだアイドルへの道。だが、きらびやかな服、自身に浴びせられる光と被災地のギャップから自己嫌悪に陥った。

ふるさとの人はきっと私の活動をよく思っていないのではないか。そう思って、苦しかった。

怖かった初めての被災地訪問

2011年11月13日、岩田は岩手県の陸前高田市にAKBとして初めて被災地訪問。

「怖かった。ふるさとを捨てたと言われてもおかしくないと思っていたし、みんなにどんな顔で会えばいいのかって」

被災地での最初のステージ。11月の冷たい雨の中、子供たちが傘もささず、ずぶ濡れになりながらAKBの登場を待っていた。

「私たちのその時期の活動をよく思ってない人もいるし、理解されないことももちろんあるけど、目をキラキラさせて、この子たちが待ってくれる。何時間も待ってくれる人が一人でもいる以上は、ここに来続けないといけないなと思った」

陸前高田で見た一本松は今も忘れない景色だ。AKBプロデューサーの秋元康氏からは「AKBの一本松になれ」と言われた。強く立ってなきゃいけない。そう思った。

芸能人と復興支援

唯一の被災者だった岩田はAKBの中で、復興支援の顔になっていく。

2012年の東日本大震災復興支援チャリティーソング「花は咲く」には歌唱メンバーとして参加。カップリングではソロも歌った。

NHK「カレンの復興カレンダー」ではナビゲーターとして、ニュースで取り上げられない、被災地で暮らす人々の日々を伝えた。

これまで被災地訪問は80回を超える。

AKBとしても被災地を回ったが、震災から3年間は、復興も進んでおらず、ステージを見る人も少なかった。来た人もどこか一歩引いていた。

「歌なんて聞きたくない。夢や希望なんてどうでもいいと思っている人がたくさんいたから。そんな中で、私たちがマイクをもって会いに来ましたって、一方的な優しさの押し売りなんじゃ。被災者である私以上に、被災していないメンバーが何倍も考えていました」

活動に対してネットなどでバッシングを受けることもあった。

「当時はがむしゃらすぎて、何を言われても全然気にならないくらい。そんなことに私が気をとられている場合じゃない。その思いが一番にあった」

「必死すぎて、心の痛みすら、ちゃんと感じようとしていなかったなと今となっては思う。12歳で入って、そういう境遇でよくやっていたなって」

芸能人の活動は被災地を救うのか? その質問に岩田は言葉を選びながら答える。

「活力になる人もいれば、ならない人もいる。別に芸能人に興味のない人もいる。自分たちが信じてその活動を続けるしかない」

続き・全文はこちら
 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170312-00010003-bfj-ent